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#3 豊田の自然と歴史にふれた一日 近代の産業とくらし発見館 [その他]


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名鉄三河線豊田市駅から、銀行やホテルが立ち並ぶメインストリートを東へ進み北へ入ってすぐ、駅から5分の好立地。


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この発見館の所在地は、蚕業取締所第四支所の挙母出張所 として始まり、大正10年に愛知県蚕業取締所第九支所として昇格今に残る建物が造られた。豊田市に現存する最古の鉄筋コンクリート造りの建築物、国の登録有形文化財。西三河地方の繭取引の中心地であった挙母町に在り、蚕病予防のための蚕卵検査や,蚕の品種改良に関する研究などが行われれ、 昭和25年に廃止される、という歴史的建物です。

第一展示室ではさらに時代を遡り、明治10年代に勃興した水車動力やガラ紡に関する展示を見せて頂きました。

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ガラ紡の発明者は長野出身の臥雲辰致という方です。天保13年(1842年)生まれ20歳で出家の後、臥雲山孤峰院の住持となるも廃物棄却で廃寺となり還俗。少年期には家業の足袋底織業を手伝いながら、紡績機械の能率化の改良を思案していたという機械好きだったようです。最初の臥雲式紡績機を明治6年に発明、明治10年に第一回内国勧業博覧会に出展し最高賞を受賞、臥雲式は各地にひろまりました。

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第一展示室に入ると大きな水車が目に入ります、使用されなくなって放置されていたものから再生したようです。この地方山間部では水量と高低差に恵まれ、元よ米搗水車や紋油水車などが多く存在しました、これがガラ紡の動力として転用増設され、三河地方でガラ紡が発展する素地となりました。

また船ガラ紡という船紡績を行う機械船が在ったそうです、川に落差の無いエリアで外輪船のような水車を付け動力源にしました。こちらが詳しく参考になりました。三河ガラ紡の歴史

学習室では、小型のガラ紡の機械があり、自分の手で回して糸を紡ぐ体験ができました。

第二展示室では企画展、明治150年記念企画展「わたしたちの学校の昔」の展示でした。子供のころ小学校でいただいた、懐かしい脱脂粉乳の飲み物付きの給食のサンプルがありました。話はそれますが戦後の食糧難の時アメリカからの無償援助による、小麦や脱脂粉乳が学校給食に用いられた事から始まるようです。アメリカとしては飢餓の子供を抱える日本には喜んでもらえますし、その時余剰になっていた農産物のはけ口として、また子供に強制的に食べ続けさせることで食習慣を変革し将来の輸出先確保でき、更には援助の見返りとして余剰資金で日本の再軍備を求めたりと、一石四鳥の戦略だったようです。こちらが詳しく参考になりました。学校給食の歴史とアメリカの戦略

サンプルを見たとき、生暖かい脱脂粉乳汁のあの微妙な香りと味が半世紀の時を経て蘇りました、私はさほど抵抗なく飲んでいましたが死ぬほどいやな方もあったようです。今考えると猫用のフードボウルでも使わないんじゃないかと思える、ぼこぼこにへこんだ薄手のアルミのボウルに当番が柄杓で注いで配っていました。大人になり、アメリカから豚の餌を恵んでもらっていたのだと知り、驚愕したことを覚えています。今でも牛丼材料の北米産牛肉のショートプレートは、生産国内では食用の需要がなくごみ同然、なので安い牛丼が可能だったとの記事を読みました、やはりいろんな意味でアメリカはすごいです。

こちらでは豊田市の産業の変遷や発展のビデをも見せて頂きました。自分の生きてきた同時代のトピックスで思わぬ記憶が蘇ったり、ガラ紡の素朴で巧妙な仕組みが、からくり人形の延長応用のようで伝統や歴史を感じたり、面白く時を過ごすことができました。豊田市の施設で無料で楽しめます、ありがとうございました。


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