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錦秋の奈良、大和いにしえの記憶 1 桃尾の滝〔布留(ふる)の滝 〕 石上神宮 天理市銀杏並木 [その他]


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 最初に訪れたのは桃尾の滝です、石上神宮の元宮との伝承もあります。


里はあれて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる  僧正遍昭

 

光考天皇(830-887)が親王であられた頃、桃尾の滝〔布留(ふる)の滝 〕をお訪ねになる途中偏照の母の家に泊られました。秋の野を模してしつらえた庭を前に遍昭 詠んだ歌です。

 

光考天皇の乳母は遍昭の母であったとの説があります。或いは老いた母、乳母と、平安遷都で活気のなくなった旧都の里、過ぎし夏に枯れ荒んだ庭の風情を重ね、時の流れを寂寞たる様に詠っているのでしょうか。

 

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次に訪れたのは石上神宮(いそのかみじんぐう) です。

 

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物部氏の総氏神とのことです。日本書紀に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであると、ウィキペディアに在ります、この記述からは日本最古設立の神宮となります。

 

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古代史は諸説があり調べると面白いです。物部氏は南方海から渡来した一族を始祖としており、出雲大社に関わる一族同様、大和朝廷の北方渡来の人々より先にそれぞれ地域を支配していたとの説です。大和朝廷に屈した後、物部氏は軍需軍事をつかさどる有力氏族となりました。

欽明天皇の時代仏教公伝(552年)より、崇仏派の曽我氏と排仏派の物部氏が争うこととなり、次の世代の蘇我馬子、物部守屋の時代に引き継がれる。用明天皇崩御の後、次代の皇位継承者擁立の争いから、守屋は曽我勢力に打取られ(587年)物部氏は権力から遠ざかることになったようです。

 

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官幣22社で最古の神宮の由緒を持つ歴史を知りました。

出雲大社同様、伊勢神宮熱田神宮とは別の系譜の最古の神社ということです。

 

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 「出雲建雄神(いずもたけおのかみ)とは素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、天武天皇のときに、草薙剣は石上神宮にわざわざ摂社出雲建雄神社を建てて奉斎された。・・・・当時石上神宮は、日本の開祖・スサノオと大和朝廷の始祖・ニギハヤトと国平けの神剣・布都御魂剣を祀る日本最高の神宮であった。・・・・召喚されたのが天武天皇6年(677)、祀られたのが9年後の朱鳥元年(686)まで鎮座していたことになる。草薙剣は、天武天皇の頃には石上神宮にあって、布留剣と呼ばれていた。草薙剣と命名されたのは、天武天皇死後のことである。」との記事を見つけました。三種の神器の一つ熱田神宮の草薙剣が、天武天皇の頃にはこちらに在ったとのこと。

 

次に天理大学から天理市役所への銀杏並木が絶景、とのことでやってきました。

 

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この後は奈良公園方面に続きます。


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