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豊橋探訪 その2 二川宿本陣 [その他]


二川宿本陣.png


JR二川駅から東へ少し走ると道幅が狭くなり、昔の宿場町の街並みの雰囲気が残っています。



訪れる前に本陣のことを少し調べました。そもそも担い手がない、火事で焼けると身上をつぶし次のやりてがないので困ったことになる、と在りました疑問です。


ガイドの方にお声がけ頂き、案内して頂きました。


上段の間.jpg


上段の間の中央殿様の眠る場所は、分厚い畳が2畳分畳の上に重ねてあります、これは下から刃物で攻撃されたときに防ぐためのものだそうです。
また上段の間は奥庭に面しており、火事などの際庭から非常口に素早く最短で逃げられるよう配置されているとのこと。庭は怪しい者が隠れる死角を無くすため庭石などは丈の低いもが使用してあります、安全への配慮がそこかしこに視えます。


殿様の使う雪隠は畳が敷いてありました、畳敷きのトイレはあまり見たことがありません。大便器は当然和式で木製ですが使用する際の向きが今と反対だそうです。「きんかくし」と呼ばれているものは「衣掛け」がなまったもので、しゃがんだ際に後ろ側にきて着物をそこに掛ける為ものだそうです、ポッチャン便所ではなく着地点は砂だそうです。さすがに高貴な人の使うものは配慮のされ方が違います。


何故本陣は担い手が出てこないのか伺ってみました、「損ばかりで得する事が無い」のだそうです。殿様や公家、高僧が宿泊に使うのですが、対価を本陣から請求するのではなく、お使いいただいた方の心付けなのだそうです。相手の気持ち次第というわけです、少額でもお金で貰えればまだましで、お坊さんだと「書を一幅書いて進ぜよう」、お公家さんだと「短冊をもて」で歌をさらさらでおしまい、等というのもあるそうです。他の本陣では富裕層を泊めていた記録があるそうです、今でいうと「この部屋は天皇陛下の・・・」で付加価値が高かったのだろうとのこと。


更に家来達が布団を持って行ってしまうというのも有ったそうです、江戸で換金出来たそうです、用の無いときは主人以外は立ち入り禁止で、出立前に備品の数を数えるなど不可能だったということです。常滑の空港近くのホテルで赤地に星五つの国の方を泊めたら、据え置きのテレビが無くなっていたという話を思い出しました、昔のお武家さんはどんな暮らし向きだったのでしょうか?


それぞれの本陣には御常連贔屓筋の殿様があり、二川では福岡藩黒田家にご利用いただいていたとのこと。上段の間の襖絵は元の写真などが無く復元できず現況無地になっているのですが、黒田の殿様にお願いをして、お抱えの絵師に描いてもらったものが在ったそうです。


お抹茶もいただけます、おいしい笹餅が付いてきました。
ちょんまげや島田の日本髪のかつら、引き回し合羽や振り分け荷物等も無料で利用できます、江戸時代の旅人になりきりモードで楽しめます。


楽しく美味しく過ごさせて頂きました、疑問が解消したのが何よりです、ガイドの方やお茶の配膳ありがとうございました。


東三河を歩こうのサイトの二川宿本陣資料館のページです、写真やリンクが豊富です。




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