#7 三谷まつり 中区 花山車 [その他]
何故山車が海に入ることになったのでしょうか?
このお祭りに来ることになったきっかけ、”何故山車が海を渡るのか”この疑問を解くべく調べてみました。
三谷祭史料委員会武内正委員長のインタビュー記事(2006年)に、「現在、四台の山車があり、古いもので1800年代の始めころという記載があります、・・・・・・山車も大がかりなものですし、道幅も非常に狭くまた川もありましたので、どう渡ったらいいかと考えた末、 浜辺がすぐ近くにありましたので海に入ったといわれています。」と、有りました。記事では海運、機織り、漁業と大いに栄えた土地であることを知りました。豪華な山車、大掛かりで暇財の掛る練りや衣装納得できました。
渡御を観ている間、隣にいらっしゃった古老のお話を伺う事が出来ました、80歳を超えた方で70年前の浜の様子が見えてきました。
「山車は昔は川から海に入った、川は2本あった、海苔の養殖もやっていた、伊勢湾台風で浜がなくなってしまった。」とおっしゃっておられました。
西宮と東宮の間に川が2本有ったそうで調べてみました。
地図を見ると硯橋が有り、硯川が在ります、もう一つは蒲郡市の環境経年データ集の水質調査地点の地図リストから、肥川が見つかりました。
どちらも多くが暗渠になっているようで、肥川は寺戸公園西側を流れ、ドミーの西側あたりで海に出ているように見受けられます。
伊勢湾台風までは三谷魚市場の辺りから山車が海に入り、東南に進んたでいたと思われます。
また海岸を少し離れれば、海苔粗朶 (そだ)も施設されていたはずで、海底の状態は畑のように熟知していたと思われます。
海中渡御に備え棒が準備されています。
古老は「一度も見ぬものはばか、二度見るもばかと、昔から言われている。」とのことでした。
どうでしょうか?見どころが沢山すぎます、1回ではとても把握できません。
また古老は、「兄達のお祭りの練習で、家の中では早い時期からお祭りが始まっていた。置いてある練習用の笛に触るだけで、女は触ってはいかんと父に叱られたものだ。今は子踊りにも女の子が参加している、兄たちの踊りを視ていたので、私は子踊りを踊ることができる。自分たちの頃はは、お祭りに合わせ上等な着物を着せてもらえたが、端で観ているだけだった。」とも語っておられました、今と相当に違う女性の立ち位置が窺えます。
冒頭に紹介したインタビュー内で、中区の後継者難から継続の危機的状況が有り、外部の方の参加を呼び掛けていらっしゃいました。
素晴らしいお祭りです、感動をありがとうございました。
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